院長挨拶

医学への憧憬(その1残り9)

 人間って何なのか?(そのベースには自分ってなんなのか?)という疑問を解決しに医学部を志しました。そのころは緩和医療の黎明期であり、ホスピスケアとも言われてました。その主人公が精神科医だったこともあってターミナルケアの診れる精神科医になりたいと思ってました。

医学部時代(その2残り8)

 学びたかった精神医学は理想とは違いました。また、医学を広く学ぶ中で多くの人に貢献できることの優先順位が上がっていきました。ご縁があって学生の頃から薬理学教室(腎臓薬理)に出入りさせていただき、高血圧や腎不全の治療が多くの人の健康に貢献できるのではないかと卒業後に腎臓内科へ入局しました。

 

腎臓内科から薬理学へ(その3残り7)

 緩徐に進行する腎臓病やその先にある血液透析の治療は、“病気ではなく人を診る”スタイルの診療に合致しておりやりがいのあるものでした。また大学院での研究もよき指導者に恵まれ、国内外の学会発表・論文の発表と充実した生活を送ってました。その中で将来は海外留学の予定も立ち、あとは出発だけという段階でした。あと半年でアメリカ大陸という段階で不幸なトラブルに巻き込まれ、留学は断念するしかなくなりました。

香川から大阪へ(その4残り6)

 留学を断念したのち、母教室に居続けることは可能だったと思います。しかし、留学をジャンプアップの足掛かりにしようと思っていた計画は水に流れたという失意の中にありました。この先どうしようと広い視野で考えた時に、医師になりたいと思っていた精神科の門を叩こうと決意しました。そこでまた人生の分岐点を迎えたことになります。香川にとどまるのではなく、故郷の大阪に13年ぶりに帰る決断をしました。幸いにも精神科病院に友人がいたため、すんなりとそこに就職することができました。学生実習以来の精神科病棟、精神科の医局に属することなく、初めての精神科診療に関わることとなりました。

 

大阪から北海道へ(その5残り5)

 大阪での精神科臨床はおおむね順調で、5年半で精神保健指定医を取得できこのまま同じ病院で勤務することが当然と思っていました。ちょうど平成22年から指定医となり、それまで経験できなかったような症例を担当することになり大変充実していたと今でも振り返れます。翌平成23年3月東日本大震災がおこりました。震災後、医療がひっ迫しているという報道が連日のようにあり、今の自分に何かできることがあったらしたい。被災地に行くことができないだろうか?と思うだけでなかなか動くことはできませんでした。そんな中、全く違うところから、北海道の僻地の精神科病院で指定医を目指しているが、症例が集まらないのでレポートを作成できなくて困っている若者がいる。その医師と2年限定で病院間トレードをしないかという話が舞い込んできました。

日本の精神科病院に思うこと(その6残り4)

 北海道の転勤先は“支笏洞爺国立公園”にほど近い最高のロケーションでした。しかし、精神科医療としては半世紀遅れていると言わざるを得ませんでした。地域の受け皿がないための長期入院や行き過ぎた行動制限が行われ、2年間孤軍奮闘し病院職員にも人権を尊重した医療を説いて回りました。その甲斐あってか行動制限を受けている方が十分の一に減りました。まだまだ偏見との闘いを強いられる医療が21世紀にも存在することと精神科の治療の大半は寄り添うことであることを学びました。

被災地の医療へ(その7残り3)

 2年目の夏、東北大学で教授をしている大学の先輩から被災地での医療を手伝わないか?また、総合診療医を養成するプログラムの推進役をして欲しいと声がかかりました。被災地の医療に貢献したいという気持ちは以前からありましたが、さすがに2年の約束で大阪を出発した手前、さらに伸びるという決断をするのに苦悩いたしました。でも、アメリカへの留学の夢が閉ざされ、もう一度国内留学するくらいの気持ちで仙台の地に乗り込みました。

東北大学病院での2年間(その8残り2)

 病院講師として総合診療外来での勤務、気仙沼市立本吉病院・石巻赤十字病院等の非常勤医師としての勤務を通して被災地の医療に携われたことは今の財産になっています。都会では考えられない医師数の少なさ、自分は身体科だから精神科をみないとかその逆も言ってられない状況でした。また、医療機関までの足がなく訪問診療の必要性も目の当たりにしました。大阪に帰ったらこんな医療をしたいという青写真はこの時に作られたと言っても過言ではありません。

いざ大阪に(その9残り1)

 そんなこんなで2016年(平成28年)3月末に大阪に帰ってきました。それに合わせるように開院した現在のクリニックの副院長として勤務を開始し、途中同じ市内のさくら会病院に勤務することがありましたが、自分のやりたいことを少しずつ実現させております。令和2年から令和5年初頭までのまるまる3年間はコロナ禍であり、いろいろな活動がストップしたことは残念でありません。ようやくいろんな場面での再始動が起こっています。

そしてこれからのこと(その10残り0)

 医療・介護・福祉のコンダクターでありたいという気持ちはさらに強くなってきた。医師が患者を導くというパターナリズムではなく、個人を支えるもしくは寄り添うクリニックでありたいと切に願っている。